おはようございます、こんにちは、こんばんは。
じおーた(Twitter@JiotaQq8888)です。


ということで、始めていきます。
本日の目次(タップすると飛ぶよ)
初期臨床研修
大学(母校)を選んだ理由
初期臨床研修は、母校の大学病院を選択しました。
当時、新研修医制度が始まって数年の頃で、大学病院で初期研修するのは否定派が多かったんですよね。医師6年目で大学院に入学して大学に戻ったんですけど、そのときも医学生から一番多かった質問はこれでした。

母校の後輩たちは、大学病院の初期研修に否定的なイメージを抱いていました。
ズバリ、その答えは

入職して間もないころはモチベーションも高く、真っ白なキャンバスに自分の医師像を書き込んでいける時期です。その時期に、ありふれた疾患で埋めるのではなくて、重症疾患や稀な疾患、診断・治療に難渋している症例を書き込んでいきたかったのです。
もう1つの理由は、同級生たちには大学で初期研修しても駄目だみたいな風潮があったんですけど、そこに反発したい気持ちもありました。大学で初期研修しても使い物にならないなんてことはないと証明したいと粋がっていました(笑)。
研修内容
1年目は内科で6か月間、研修するのが必修だったんです。この6か月間は、朝は7時には病棟に行って毎朝回診してました。検査や新入院患者の対応で日中は過ごして、夕方にもう1回回診をします。臨床実習に来ている学生さんの相手をして、そのあとカルテを書いたり、病歴要約を作成していました。もちろん、緊急の症例があれば、対応をしていました。家に帰るのは0時を回ってからがほとんどでした。
出来が悪かったのもあるんですけど、当時の母校の指導医の先生方は、病歴要約のcheckも厳しくて、何回も調べなおしたり書き直したりと手厚いご指導を受けました。おかげで、3年目以降、病歴要約もしっかり書けるようになりましたし、論文や学会発表するうえでの症例のまとめ方に役立ちました。
10月から2か月間、救急/ICUで研修したんですけど、これ以降は研修医2年目の5月まで朝8時から夜24時まで救急車が来たら呼んでもらうようにもしていました。当時の母校は3次救急しか受け入れていなくて、こうしないと救急症例の経験が少なすぎてやばかったんですね。夕方18時以降は救急研修に関係なく、ICUに入り浸って、救急がこないときはICUの患者さんの対応とかもさせてもらっていました。2年目の最後3か月もICUを選択したので、かなり3次救急や集中治療に入り浸った初期研修を送っていました。
ここには記載していませんが、残りの期間も必修、選択ともにまじめにこなしていましたよ(笑)
記憶に残っているエピソード
初期研修中は、指導医の先生が走っていると、その先には急変や緊急対応が必要な重症症例で急いでいることが多かったんです。なので、とりあえず指導医が走り出したら、後をついて走っていました。そうすると、緊急症例を経験できるし、時と場合によっては処置させてもらえることもあったし、そういうときにどう対応したらいいか指導してもらえることが多かったからです。落ち着いた後に指導してもらえるケースもありました。そうやって自分の知識・スキルを磨いていたんです。こういう嗅覚って大事なんですよ。研修中の数症例、数十症例の差も年単位で考えるとすごく差がついていきます。
1年目の冬のとある日、指導医の先生が医局から走り出したので、「これは緊急か!?」と思ってついて行ったんですね。
そうしたら、「じおーたくん、僕はトイレが漏れそうだから走っているんだよ、医局に戻っていいよ」って言われちゃいました(笑)。
誰かが慌ててたら、ついていくと実りが多かったんですが、ただ、トイレとは・・・まぁありますかね(苦笑)。
私見
現在、振り返ってよかった点、悪かった点を書いておこうと思います。
当時のことなので、今とは研修内容も大きく変わりましたし、そっくりそのまま参考にはできないでしょうけど、役立つこともあるかもしれないので参照してください。※あくまで私見です。
よかった点
- 重症に対する対応や稀な疾患の経験
- 幅広い専門家との人脈
- 論文や学会発表を意識した指導を受けられた
1は研修先を選んだ時の理由そのものですね。色々な科の先生を質問攻めにして学んだおかげで3年目以降に市中病院で重症対応するときに非常に役立ちました。
2は、6年目に大学に戻ったとき、研修医当時の指導医だった先生たちは1つずつお偉くなられていたのですが、気さくに話しかけてくれたり、気軽に相談に乗ってくれたりした点は、研修医でお世話になっていてよかったなと思います。
3は、大学院で避けられない論文。病歴要約でしこたま指導されたおかげで、少しマシだったと思っています(勘違いかもしれません)。それでも論文を1本発表する苦労はなかなかなものですが・・・。
ここからは良くなかった点を書きます。
まず、当時の看護師さんは怖かったです(笑)。いまだに言われていますけど、昔に比べたらかなり優しくなりました。(あくまで僕の働いていた大学病院の話です、一般論ではありません。)
次は、市中病院の同期より年収が200万円以上低かったことです。ただ、これに関しては、生活に困ったわけでもないですし、前述したように午前様で帰って朝7時には病棟にいる生活なので、あまり気にしたことはありません。なのに、貯金があまりできなくて、財布を取り上げられるのが2年後なわけですけど(苦笑)。
手技ができない、救急が少ないという指摘もありましたけど、自分で居残って救急症例を増やしたり、そこで患者さんの対応をしていれば、手技の経験回数も増えるのでこれに関しては、大学だからできないというよりは、個人の問題だと思っています。自分から率先して経験しにいくかどうかの違いなので、個人的には良くなかった点には入りません。
以上を踏まえた結論です。大学での初期研修も合う人には合うと思います。
ここからが重要です。「自分が将来どんな医師を目指しているか?その医師になるためにはどこでどんな研修をするべきか?」を考えましょう。
僕の同級生にも、「先輩が大学はないわぁ。」って言うから大学で初期研修する選択肢は最初からない!って同級生多かったんです。
よく考えてみてください。
その言葉を鵜呑みにして選んだ研修先が自分には合ってなくて成長できなかったとしたとき、その先輩はあなたの医師人生の責任を取ってくれますか?面倒を見てくれますか?
きっと取ってくれません。きっと見てくれません。
医師として最も成長する期間である1年目の大事な期間を選択する重要な決定を他人に委ねてはいけません。自分の目で見て、話しを聞いて決めてください。
私は、今でも母校の大学で初期研修してよかったと心から思っています。
後期研修
内科を選んだ理由
全身管理ができる医師になりたかったので、局所を診る科(眼科、耳鼻科など)は考えていませんでした。手術も3度の飯より好き!というわけでもありませんでしたので、内科医になることを選びました。このときは絶対、腎臓内科!と決めていたわけではなかったですが、なんとなく腎臓内科にしようかなって感じで入局いたしました。
「腎臓は疾患分野も多岐にわたるので若いうちは内科全般をやったほうがいい」という腎臓内科のボスからの勧めもあり、また医局の方針もあり、後期研修は地域の中核病院で、専門は決めずに一般内科医として働くことになりました。
業務内容(研修)
とにかくがむしゃらに働いた3年間でした。
1つ上の先生が6学年上ということもあって、ほぼ1人下状態だったので、救急当番も多かったし、主治医で担当する症例も多かったです。
循環器の患者さんも割り当てられてて、冠動脈造影やペースメーカー留置も1人でできるくらいにはやってました。あとは血液透析の担当患者もいましたし、感染症に興味もあったので、院内感染対策のチーム(Infection Control Team:ICT)の一員としても活動しておりました。これでもかっていうくらい働きましたが、このあとの大学院はさらに働いていたので、後期研修医としてはいっぱいいっぱいだったんでしょうね。
透析患者のシャントに対するPTA(経皮的血管形成術)を年間100症例やったことは自信になりました。
大学で初期研修したからこそのエピソード
その1
初めて当直に入った1例目の救急車が腹痛だったんですが、到着して目にした瞬間ものすごく痛がってるんですよ。それも尋常じゃなさそうな痛みを訴えてきてました。内心ドキドキひやひやしながら診てたんですけど、一緒に当直していた初期研修医が慣れた様子で、「尿路結石ですかね」って言うんで、どっしり構えながら「そうかもしれないね」って答えたんです。
結果、尿路結石で、鎮痛剤投与で痛み改善、帰宅、翌日受診になったのですが、当時の大学の救急に尿路結石って来なかったんですよね。初期研修医2年間やっていて、尿路結石を経験していない医師なんて今の時代はいないと思いますけど、僕はそうでした(笑)。
尿路結石は尋常じゃない痛み方をするってこの時覚えました。
その2
後期研修も2年目に突入したある日、高度の貧血の症例が緊急入院となりました。外来は別の先生が診たんですけど、入院の主治医は僕がすることになりました。入院の目的は貧血の原因を調べ、治療することです。
一緒に担当する研修医がカルテを持ってきたのですが、その検査結果を診て、「頭のレントゲンを撮りましょう」と伝えました。
研修医はなぜなのか、わからなかったようで、なぜ頭のレントゲンを撮るのか質問してきました。
検査結果を診たときに血清中の総蛋白とアルブミンが乖離していたこと、カルシウムがやや高かったことから多発性骨髄腫を疑ったからでした。レントゲンで頭蓋骨にパンチドアウトという骨融解像が多発しており、予想通り多発性骨髄腫でした。
大学病院の初期研修で経験していたので、鑑別診断に入れることができました。珍しい疾患も鑑別診断に挙げられるのは大学での初期研修の賜物でした。
その3
大学で初期研修中にICUに入り浸っていたお話をしました。
腎臓内科に興味があった僕は急性血液浄化療法なる治療法に非常に興味を抱いておりました。腎臓内科の指導医がいなかった後期研修先では独学で学ぶしかなく、学会に出かけて基礎的なセミナーを受講するなど知識のup dateを図っていました。
後期研修中に重症患者を受け持つことも多く、1週間泊まり込んで患者対応したこともありますし、他科の患者を併進していたときに急性血液浄化療法を導入できたのも、大学ICUで急性血液浄化療法を教えてもらったことに端を欲しております。大学ICUで超重症患者を指導医と一緒に診療できた経験が、自分1人でもなんとか指示を出したり対応できた要因と思っております。
その4
大学の初期研修中に救急に入り浸っていたこともあり、心肺蘇生の教育コースに指導者として参加していました。
大学を出てから1年は参加していませんでした。ただ、後期研修先の病院の心肺蘇生患者の対応はあまりいいと感じていませんでした。
そんな日々の中で、僕が当直していた夜中に救急車で小児が搬送されてきました。そのとき、対応していた小児科医の前でどんどん悪くなり、僕も応援に呼ばれました。不幸な転機を辿ったんですが、そのケースを境にスタッフも心肺蘇生をきちんと対応しないといけない、勉強しないとだめだという雰囲気になりました。そのとき、大学の先生と相談して、コース受講できるようにしてもらいつつ、私も再び指導に行くようになりました。最終的に私がディレクターとなり、その病院で心肺蘇生の教育コースを安定開催できるように考えてのことでした。
これも大学病院での初期研修を通じた人脈のおかげで、地域中核病院に教育の機会をもたらすことができました。教育する機会を得たことで、教育することの重要さにも気づき、教育者としての活動にも幅が広がっていったのです。
私見
以上のように、臨床経験をひたすら積んだ3年間と言えると思います。
院内で救急車を一番受け入れていましたし、様々な症例を経験できました。
大学で初期研修していたからこそ鑑別できた疾患、対応できた重症もありましたし、大学で初期研修していたからこそ、診たことのなかったありふれた疾患の対応も学べました。
こうして振り返ると、「質」を重視した大学病院の研修と「量」をこなさなければいけない地域中核病院の研修、両方とも必要だったなと思います。当初、大学から出て後期研修をすることに抵抗がありました。2年間働いてきて、指導医にも慣れ、スタッフにも慣れ、システムにも慣れていたからです。今思えば、居心地のいいところで医師を始めてから6~10年働いてしまうと、その病院以外で使い物にならない可能性が高いということもわかります。早い時期だからこそ、稀な疾患や超重症症例に対応する力も、重症を含みつつもたくさんの症例数をこなす力も身に着ける必要があるなと思います。どちらが先でも構わないです。でも5年目が終わるまでには「質」「量」ともに経験するほうが”絶対”いいです。自分のスタイルが固まってしまうと新しいことを受け入れがたくなってしまうからです。
特に大学は臨床だけでなく、研究・教育の仕事も入ってきますから、労働環境に不平不満が出やすくなります。若いうちにこんなもんかぁって経験しておくと、2回目もなんだかんだ受け入れられますが、「先生、先生!」って若いうちからおだてられて過ごすと、そんな環境に耐えられなくなりがちですのでご留意ください。
目安ですが、医師で10年目を終わるまでは振られた仕事はチャレンジしてみるのがいいと思います。最終的に捨てるのは簡単です。ただ経験しておいた点が後に線につながります。私も内科、救急、感染、透析、教育と色々なものにチャレンジしてきました。十数年経ったいま、1つ1つでは平凡であってもそのいくつかをこなせるコラボのおかげで転生しやすかったのも事実です。最初から狭い道に入り込むのではなく、選択肢を広げていくのはありよりのありじゃないでしょうか?
私は、医師になって時間当たりの成長が著しいのは1年目の最初6か月と3年目の最初6か月が圧倒的だと考えています。医師になってまっさらな状態の1年目、専攻が決まって専攻医としてはかけだしの3年目、この半年をいかに充実させるかがその後の大きな飛躍につながるでしょう。
まとめ
本日お話した内容は以下の3つです。
- 略歴
- 初期研修、後期研修の実際
- 初期研修、後期研修で経験したほうがいい「質」と「量」
次回はこの続きをお送りいたします。
では!